ちろる's profileほがらかにいこう♪PhotosBlogLists Tools Help

Blog


    February 22

    おさかなのボタン

    先日ちょっと縫い物をしていたとき、
    横を通った娘が 「あっ!」
    裁縫箱のすみにあった古いボタンに目をとめた。

    白っぽい魚の形をしたボタン。
    「これもらってもいい?」
    大事そうに2階の部屋へと持ってあがる。
    覚えてたんやな‥

    幼い頃あまり近所の子どもたちとなじみがなく、
    幼稚園に入園するとき、
    小学生との集団登校の班にも、幼稚園にも、
    知っている子が誰もいなくて寂しかった娘。
    入園式ではみんな真ん中の椅子に座っているのに、
    いつまでもそこへ行けずに保護者席の夫の膝の上。
    登園2日目に先生から
    「泣いてばかりなのでお母様ついてきてあげてください」
    翌日から集団登校の最後尾、
    2歳の息子を抱いた私が娘と一緒に歩くことに。
    当時息子は歩けるとはいえ、
    小学生のスピードにはまだついていけない。
    家にひとり置いて行くわけにもいかず、
    娘の登園時間に合わせてたたき起こされ、
    抱っこベルトで私にくくりつけられる。
    雨の日も、夏休みまで、ずっと毎日。

    園に着くと様子を見ながら先生が
    「大丈夫そうなのでお帰りください」。
    園の玄関まで、が小学校の校門までとなり、
    徐々に集団登校も娘だけ列の間に入り、
    私が後ろから離れて歩くようになり、
    2学期からはようやくひとりでみんなと行けるようになった。
    そんな娘を励ますために、
    制服のズボンに縫い付けた「おさかなのボタン」。

    赤ちゃんの頃着ていた服を処分するとき、
    ちょっと変わっていてまた何かに使えるな、
    とはずしてとっておいたボタンを、
    「おかあさんな、このおさかなになって
    一緒に幼稚園へ行くから寂しくないんやで」
    と言いながら、娘の目の前でズボンにつける。
    「おかあさんは途中でいなくなる」のではなく、
    いつも一緒にいるんだよと。

    娘はしょっちゅうボタンをさわるからすぐとれる。
    何度も何度も「とれたからつけて」とつけなおしたっけ。
    ひとりで登園できるようになったあとは、
    とれるたびに「もうおさかなつけなくても大丈夫?」
    とききながらだったけど、「やっぱりつけて」。
    2年間、毎日娘と一緒に登園したボタンを、
    卒園後ぼろぼろの制服を処分するときに、
    はずして裁縫箱に入れたのがそのままになっていたのだ。

    実は私がこんなだった。
    だから娘の気持ちがよくわかる。
    登園は姉と一緒だから大丈夫だったけれど、
    園に着くとひとりぼっちになる。
    時々遊んでいた町内のお寺の現住職は、
    私立の幼稚園に通ってて園にはいない。
    私は楽しそうに遊んでいる知らない子たちに
    「入れて」と言えない。
    ただひとり顔と名前を知っていた、
    同じ町の女の子の後を追いかけていたが、
    その子は他に仲良しがいる。

    数日経って一向に変わらない事態に、
    とうとう私は耐えられなくなった。
    今でもはっきり覚えている。
    行き場のない私はみんなが遊ぶ園庭の横、
    小学校の校舎に通じる渡り廊下に立ちすくみ、
    突然わっと泣き出した。
    担任の先生が飛んでくる。
    「どうしたの?どこか痛いの?ケガしたの?」
    そうじゃない。
    そうじゃないんだけどこの心境は、
    5歳児にうまく説明できることではなく、
    私は首を横に振って泣き続ける。

    2年生の姉が呼ばれて渡り廊下をやってくる。
    なだめられ、少し落ち着いた私は先生に話す。
    誰とも遊べない現状を。
    このあとの幼稚園の記憶は楽しいことばかりに変わっている。
    多分先生が他の子たちを、
    うまく私と遊ぶように向けてくれたのだろうと思う。
    同じように集団生活の入り口でつまづいた私と娘。
    あれからもう11年、
    娘は義務教育をもうすぐ終える。
    卒業式は3月13日である。

    さて思い出話はおいといて、
    火曜日は公立前期入試だというのに、
    娘は土曜から熱が出ている。
    寝込むほどではないのだが、
    うちはみんなめったに発熱しないので、
    熱が出る、という状態に慣れていなくて、
    本人も私もどうしていいかわからずに妙におろおろする。
    水分を摂れ食べられるものを食べろさっさと寝ろ
    それぐらいしか思いつかない。

    直前に詰め込みなどしなくていい。
    せめて体調を整えて試験に向かえるようにと願う。

    September 22

    右足 おまけ

    ブログをはじめてから昔のことをいくつか書いてきたけど、
    実は足のことは書くつもりはなかった。
    というか、手術後は以前よりも右足を意識せずに生きてきた。
    右足だけ特別に何かあるわけじゃない。
    たぶんそれが「普通」のひとの感覚だと思うし、
    私が「右足について思うこと」も格段に少なくなっていたので。
     
    それがヨガを始めてから、
    自分の下半身の関節の可動域が非常に狭いことに愕然とした。
    先生がらくらくといろんなポーズを決めるのはあたりまえかもしれないが、
    一緒に習っているみなさんと私はかなり違う。
    普段の立ち座りや軽い動きにはなんの支障もないだけに、
    特別不便も異常も感じなかったのだが、
    ヨガで日常使わない部分を使い、並んで同じ動きをするとよくわかる。
    まぁ全体的に体が固いのも多少あるが、
    ある程度できるポーズと、ぜんぜんダメなポーズが私は極端である。
    軸足が左か右かでバランス感覚がえらく違ったりもする。
     
    高校の部活で、練習中にぶつかり合ったときの私のころび方が、
    他の部員と違って独特だと言われたこと。
    腰から下が伸びたままで足をはねあげるように倒れるので
    「冷凍イワシ」と表現された。
     
    高卒で入社した自動車販売会社での一泊研修のとき、
    朝の座禅で「結跏趺坐」どころかあぐらも組めずに泣いたこと。
    足首のしなやかさもないのを実感。
     
    昔からずっと足の指が自由に動かないこと。
    足の指なんて動かないものだと思い込んでいたので、
    夫が足でグーチョキパー、とできるのを見てたいへん驚いた。
     
    ヨガをきっかけにそういう記憶がふっと頭をよぎる。
    あぁ、気付かなかったけど、
    長いギブス期間とギブスをはずしたあとの何ヶ月か、
    足を自由に動かせないというのは、こういうことなんやな。
    特に1歳や3歳といった成長著しいときに、
    しばらく動けない時期があったのは影響が大きいに違いない。
    ということはそれを補うリハビリをしなきゃいかんのか、
    と気付いた私は、自宅では極力あぐらを組んだり、
    足を大きく開いてお行儀悪く座ることにした。
    それから足の血行をよくするのと、足指の動きを妨げないために、
    日常的に5本指の靴下をはくことにした。
    さらに職場で床に置いたものを取るときは、
    中途半端にかがまずにしっかりしゃがむ、とか、
    毎日の作業時の動きかたも、
    足腰の動きを意識するようにした。
     
    おかげで少しずつではあるが、
    股関節は開くようになってきたし、
    前屈では背中を曲げるのではなく、
    腰を折るのだ、ということがわかってきた。
    そういう中、
    昨年の春ランニングを始めたときに感じた
    足の甲の違和感を仕事中にも感じるようになり、
    そういえば昔から何かあるといったら右足やったなぁ、
    とあらためて思ったのが、「右足」を書くきっかけとなった。
    書き出すといろいろ思い出す。
    あれも、これも、と書き連ねているうちにどんどん長くなり、
    2回くらいで終わるはずが、7回も続くことになった。
     
    小学校の同級生で、
    右手の親指付け根あたりに傷跡
    ‥多分火傷だろう肌色だけどひきつれた皮膚‥
    のある男子がいた。
    運動会のダンスの練習で手を差し出すとき、
    彼はちょっと引き気味だったように思うし、
    相手の女子も差し出された手をとるときに、
    彼の手の傷跡をつい見ていたのではなかろうか。
    私はもちろん引き気味に手を差し出す彼の気持ちがわかったし、
    彼の傷跡のある手については何も思わなかったけど、
    差し出された手の、どこに視線がいくかというと、
    指先ではなくやはり傷跡なのだ。
     
    何もないはずのところに「何かある」というのは、
    そういうことだ、というのを私は彼の手に教わった。
    私の足は黒かったから常にもっと目立っていたのであろう。
    一枚だけ、手術前のアザが写った写真がある。
    母に抱かれて私の体が後ろ向きになっていて、
    顔だけ振り向いたところを撮っているので、
    丸く黒いアザのあるふくらはぎが写っている。
    まだ直径5cmくらいで、
    このあとふくらはぎ全体にひろがった、と聞かされた。
    ‥これはこの段階でも確かに目立つ。
    両親はさぞ気をもんだことだろう。
     
    今はこういう経験をしたこと、何もかもを、
    肯定的にとらえることができる。
    そのおかげで得たものは大きいと思うし、
    誰もが体得できる類のことではないので。
    今回いろんな思いをすべて書けた。
    あらためて自分自身気持ちの整理がついた。
    すっきりした(笑。
     
    September 17

    右足 その7

    結局リハビリに半年以上かかり、
    最終的に「完治」したのは1年後であった。
    保護テープもサポーターもいらなくなり、
    ふくらはぎを「なんとか列島」のごとく、
    点々と連なっていた真っ黒な皮膚と太い傷跡は、
    長さ20㎝・幅1㎝の「肌色」の傷跡一本になった。
    多少は筋肉もついて左右の太さが極端に違うわけでもなく、
    後ろから見てもひと目で私だとはわからなくなった。
    生足だと目を近づけると傷跡が見えるが、
    ストッキングをはけばほとんどわからない。
     
    他人の目など気にせず、ずっと短いスカートをはいていたが、 
    それは「平気」なのではなく、
    「平気な自分」を演じていただけだと、
    「目につく」ものが何もない
    「普通の」足を手に入れてわかった。
    そうか、そうやったんか。
    自分を縛っていた「何か」から解き放たれた気がする。
     
    もちろん細くても傷跡はあるし、
    「切って縫い合わせた違和感」がある。
    でもそれが何?
    切って縫い合わせる、を3回やったんやもん。
    多少なんやかんやあるのは仕方ない。
    そういう「なんやかんや」と引きかえに、
    私は手術以前の自分を過去にする。
     
    誰しもその人なりに大きな変化がある時期、
    というのをお持ちだと思う。
    自分で判断して遠い大学付属病院を受診して、
    自分のお金で手術を受けた、
    もちろんまわりのみなさんにいろいろ迷惑をかけ、
    またお心遣いいただき、お世話になったことも含めて、
    このことが私の以後の意識や行動に大きく影響している。
    姉との関係から生じたコンプレックスが徐々に消えつつあり、
    右足のコンプレックスが消失したこの時期が、
    現在につながる新しい私のスタートであった。
     
    ちなみに手術を決意するきっかけになった、
    「50万かかっても支払いは5万」だが、
    実際は5万ではすまなかった。
    しかし入院があれだけ延びたわりには意外とお安い金額で。
    「めずらしい症例で学生の教育に役立った」らしいので、
    思い切って「まけて」くれたのかと思うほど。
    おまけに予定の「5日」なら1日しか対象にならなかった、
    生命保険の入院給付金(5日目以降)が21日分いただけたので助かった。
    給付金については、
    保険に加入するときに持病として申告していなかったので、
    保険会社に給付金詐欺と疑われ家に調査員が来る、
    というおまけつき。
    それも今となっては笑い話である。
     
    正座して体重をかけると、
    くっついたはずの切り口が「ずれる」感覚があったり、
    立ち仕事では右足だけむくんだりする。
    いや、しっかりむくむ余裕がなくて足がパンパンに張る感じ。 
    右のかかとを左かかとにぶつけてしまうゆがんだ歩きぐせ、
    その歩きぐせのためか右足裏に常にできるタコ、
    小学生でアキレス腱を、中高の部活でもあちこち痛めたり、
    何かトラブルを起こすのはきまって右足。
    昨年始めたランニングを中断しているのは、
    右足の甲に痛みが出たからなのだが、
    最近は仕事中にもたまに感じるようになってきたため、
    長時間のランニングはもう無理かもしれないなぁ。
     
    からだのどこかに新しいほくろが増えるたび、
    「もしや大きくなるのでは」とドキドキする。
    実際気がつくとどこかにほくろができている。
    でも、大きくなったら大きくなったで、切除すればいい。
    次はもっとかんたんに手術ができるはず。
    今は普段の生活にはとりあえず何の支障も無い。 
    事務員とは名ばかりの軽作業の立ち仕事もできるし、
    行きたいところに行き、たいがいのことはできる。
    それでじゅうぶんありがたい。
     
    「右足」にながながとおつきあいいただきありがとうございます。
    手術に関する一連のおぼえがきは今回でおしまい。
    「どうやったかなぁ」と思い出しながらでしたが、
    記憶の引き出しからこれだけ出てきたことで満足です。
    September 16

    右足 その6

    松葉杖2本とともに退院し、自宅療養が始まった。
    当時自宅の風呂は鉄製の五右衛門・シャワーなし。
    トイレは濡れ縁から張り出しの開口部の非常に広い直下型と、
    病院より不便な環境ではあったがやはり家は落ち着く。
    和室ばかりだと立ち上がるためにつかまるところが少なく、
    家の中ではほぼ這って移動。
    2階の自分の部屋に上がるのはあきらめて、1階で寝起きする。
    何よりもまず、車に乗れるようにならなくちゃどこへも行けない。
    医師にはやめなさいと言われたが、
    足首がある程度動くようになれば運転ができる、
    と勝手に判断した。
    当時というか独身時代はずっとMT車に乗っていたので、
    左足はクラッチを踏まねばならず、手術が右足でほっとしたものだ。
     
    車で外出できるようになった私が、
    最初にしたことは会社を辞めることであった。
    車に乗れれば通勤に支障はないものの、
    事務所は鉄製の外階段を昇った2階だったし、
    荷物の受け取りや商品の確認で、
    日に何度も階段を昇り降りする仕事である。
    曲がったままの足で、これまでと同じ仕事は無理。
    それを他の人に押し付けて自分が事務所で座っている、
    というのは私の気持ちが許さなかった。
    1週間、と言いながら1ヶ月も休んだうえに辞めますなんて、
    とんでもなく自分勝手だと思いながら、
    曲がった足で松葉杖をついて会社に出向くと、
    なんとなく「その足じゃぁ仕方ないな」という空気が漂い、
    すったもんだすることなく退職、となった。
     
    退院後は診察もひんぱんではなく、
    自宅での自主的なリハビリをし、
    しばらくして経過を見るという感じ。
    2回目の診察のとき、
    傷口を見て順調な回復具合を確認した医師は、
    「じゃあもう松葉杖はなしで歩いてください」
    とあっさりと告げる。
    その場で松葉杖を回収し、「ではお大事に」と言う。
    「え‥‥」
    私はというと、家の中では杖なしで片足で動き回っていたが、
    まだ足はちっとも伸びてなくって、外出には必ず杖を使っていた。
    まっすぐ立つと右足は5cmぐらい浮いている状態で、
    いきなり杖なしでなんて言われても右足を床につけることすらできない。
    医師の目の前でぐらぐらと倒れ込む私を見て、
    医師はしぶしぶ松葉杖の使用を許し、再度貸してくれたが、
    わがままな患者だと思われたことであろう。
     
    次回の診察ではもう杖の貸し出しはしてくれないな、
    と思った私は固まったままの膝に困り果てた。
    とにかく膝を動かして、もとのように自由に曲げ伸ばしができないと。
    せめて右足を床につけて体重をかけることができるようにならないと。
    どうやったらええんや?
    風呂あがりに膝の屈伸、これしかない。
    曲がらない膝を手で押して曲げたり伸ばしたり。
    思うように曲がったり伸びたりしないからすぐいやになる。
    でも伸びないと困る。
    この時期けっこう精神的には↓やったかも。
    それでも少しずつ膝の可動範囲が広がっていき、
    次の診察時には、右肩は落ちて「いかにも足の具合の悪い人」といった、
    すごい歩き方で、杖なしで歩けるようになった。
     
    そうして右足を使うようになると、
    だんだんと曲げ伸ばしも楽になってくる。
    ちょうど中学~高校時代の友人が、
    自分の勤務先のアルバイト募集の話を持ってきたので、
    電車通勤でリハビリをしよう!と思い立った。
    バスで最寄のJR駅に行き、天王寺で乗り換えて、
    地下鉄で谷町4丁目まで。
    待ち時間を入れると片道1時間半ぐらいの行程である。
    これを週3日。
    仕事は建築設計事務所の雑務である。
     
    そのうち府庁へ書類を届けたり、
    かんたんな書類内容の訂正などといった、
    「おつかい」にも行くようになり、
    何ヶ月かの勤務でずいぶん膝の可動域が広がった。
    ありがたいことである。
    退職した頃には、サポーターはしているものの、
    立つ・歩くに関しては特に困らなくなっていた。 
     
    ‥今日はここまで。 
    September 15

    右足 その5

    病室を出てうろうろするようになると、
    これまでなかった、他の部屋に入院している人との出会いがある。
    私の部屋で一緒だったのは母ぐらいの年配の人や、
    母とはいかないまでもひとまわり以上年上のひとだったので、
    歳の近い女性と知りあい、話ができるのは新鮮で楽しく、
    私は彼女の部屋に入り浸りになった。
    話を聞くと彼女は、 ←失礼ながら外見だけ見ても
    私なんかとは比べものにならないくらいたいへんな状態。
    何度も入院・手術を繰り返しているらしく、
    今回の入院も長期にわたるものだった。
     
    姉にはない生まれつきのアザを、傷跡を、
    私はあえて隠さず、わざと短いスカートをはき、
    気にしないふりをしながら心中ずっと気にしてきた。
    姉に「友達と並んでいても後ろから見たらアンタはすぐわかる」
    と言われたり、
    駅で見知らぬ親切なおばさんに「右足のうしろが汚れてるよ」
    と『教えて』もらうことに私は実はかなり傷ついていたのだ。
    私の友達は誰ひとり足のことには触れなかったが、
    何も思っていなかったわけではないだろう、ということもわかる。
    だって、足が不自然に黒いんだもの。
    肌の色とは思えないマットな黒さは、
    ストッキングをはくとよけいに、
    油やすすで「黒く汚れたように」見えるのだ。
     
    しかし彼女に出会って、
    申し訳ないが自分は幸せだ、と感じてしまった。
    私は今回の手術で「終わり」なんだから。
    彼女の「終わり」はいつやってくるんだろう。
    明るく振舞う彼女は、私にはない「強さ」を持っていたなぁ。
    私は、自分が「足のことに触れなかった私の友人たち」
    の目で彼女を見ているような気がした。
     
    入院最後の数日は歩行器→松葉杖で歩く練習。
    ベッド上で過ごす時間が長かったので、
    健常な左足の筋肉も落ち、ずいぶん細くなっている。
    やっと立てる、とベッドから足を下ろす。
    ‥ふらつく、まっすぐ立っていられない。
    「立つ」ってこんなに努力がいったっけ?
    長いこと「縦」になってなかったのと、
    まだ右足が使えないのとでバランスが取れないまま、
    歩行器にしがみついて移動する。
    ちゃんと松葉杖で歩けるようにならないと退院もできない、
    がんばって歩く練習をする。
     
    退院前にギブスをはずされ、はじめて傷を見た。
    確かに「切って、縫って」ある。
    筋肉が落ちて細くなった左足よりもさらに細くなっていて、
    しばらくは傷口が開かないようにテープを貼り、
    その上からサポーターで保護する。
    膝と足首は90度に曲がったまま固まっていて動かない。
    徐々に伸びていくでしょう、ということらしい。
    退院する私へのプレゼントはシャワーの許可だった。
    嬉々としてシャワー室に向かい、
    曲がったままの足は床につかないので片足で立ちながら、
    ほんとうに久しぶりに熱いお湯を浴びる。
     
    結局入院は25日間。
    長かった。
     
    ‥今日はここまで。
    September 14

    右足 その4

    ベッド上で2週間を過ごし、いよいよ車椅子が用意された。
    普通の車椅子の座面に左右逆L字型の板が置いてある。
    板の上に座り、左足は車椅子の足置き台にのせ、
    右足分だけ前に突き出した板の上にギブス足をのせるのだ。
    まずはベッドから移る練習をする。
    ドアのほうに向けてベッドと平行に置いてもらった車椅子の、
    手すりをつかんで自分で乗り移る。
    最初は自分が乗る前に車椅子が動いてしまったりして、
    うまくいかなかったが、徐々に慣れてすんなり乗れるようになった。
     
    これで部屋の外に行ける、トイレにも行けるのだ。
    ただ板が前に突き出した分だけ最小回転半径が大きくなり、
    行けるところが限られる、というのが徐々にわかったが、
    動ける喜びはなにものにも代えがたく、
    早速私は病棟の中をうろうろしはじめた。
     
    前進・後退・切り返しを駆使して「私が行けるところ」を確認。
    念願のトイレは入り口の幅と向きによって、
    入れるところと入れないところがある。
    病室と違って入ってすぐに向きを変えなくてはならないので、
    入れるところも「切り返してぎりぎり」であった。
    エレベーターに乗ればロビーや売店にも行ける。
    私はうれしくなってあちこちに出かけた。
    エレベーターにはたいがい誰かが乗っているので、
    乗り降りのときにドアを開けておいてくれたり、
    ボタンを押してくれたりしたのでとても助かった。
     
    反面、普通の車椅子よりスペースをとるので、
    あまり乗る人が多いときは迷惑になるだろう、と、
    だんだん人の少ないエレベーターに乗るように。
    あるとき夜間にエレベーターに乗った。
    乗るときは他の人がいたのだが、
    先の階で降りていき、私はひとりで降りることになった。
    ドアが開き、いつものように車椅子を動かしたら、
    前輪が何かに引っかかって動けなくなってしまった。
    前進もバックもできずその場で立ち往生。
    閉まりかけたドアが、
    ギブス足をのせている板に当たっては開き、
    また閉めようとして板に当たっては開く、ということを、
    何度も何度もくりかえす。
    廊下を歩く人もいなくて、
    板がドアに挟まれて立てる音があたりに響き渡る。
    それを聞きながら、
    「いつまでこうして挟まってなあかんのやろ」
    ととても不安になったものだ。
     
    ありがたいことにしばらくして通りかかったひとが、
    開閉を繰り返すドアや立ち往生している私に気付いてくれた。
    いやぁ、朝まで「がっちゃん・がっちゃん・がっちゃん」
    と挟まれてるのかと思ったが、よかったよかった。
     
    ‥今日はここまで。
    September 13

    右足 その3

    「5日」のはずが「すくなくとも20日」と入院が延びた。
    「予定」とはどうやらそういうものらしい。
    それを「騙された」と思っても仕方ない、いい勉強になった。
    天井から足を吊り下げて何日過ごしただろうか。
    何から何までベッドの上で、という生活が2週間。
    トイレも、である。
    切ったり縫ったりしたんだから、
    風呂に入りたい、とか、売店に行きたい、とか、
    そんな贅沢を言うつもりはさらさらないが、
    トイレに関してはたいへん困った。
     
    尿意をもよおすといちいちナースコールを押して、
    スピーカーに向かって「トイレお願いします」と言わなきゃならん。
    少し待つと看護婦さんがやってくる。ホーローの容器を持って。
    ‥介助して連れて行ってくれるのではない。
    看護婦さんはベッド周りのカーテンを閉め、
    寝ている私のお尻の下にホーローの容器を差し入れ「はいどうぞ」。
    今でこそおばちゃんであるが、当時はうら若き女性であった。
    個室ではないので周囲の人にも気をつかう。
    足を吊っていて体が動かせないので何から何まで看護婦さん任せ。
    おむつよりマシ、というレベルである。
     
    しばらくすると足を吊らなくてもよくなった。
    とはいえ膝と足首が90度に曲がった状態でギブス、である。
    仰向けに寝ていると右足が不安定なので横を向いて寝る。
    そうすると足を倒せるのでラクなのだが、
    左を向くと健常な足の上に重いギブス足が乗っかることになり、
    やはり不安定だし快適ではない。
    右を向いてギブス足を倒し、
    左足は伸ばしたり、少し曲げたり、たまにギブス足にもたれたり‥
    という姿でしか寝られなくて、寝返りなど夢のまた夢である。
     
    起床・検温・洗顔がわりに看護婦さんが持ってきてくれる濡れタオルで顔をふく、
    が一連の朝の行動。
    あとは食事・回診・トイレ、平日はだれも面会に来ないし動けないし。
    ベッドの上だけ、というとても狭い範囲で生きていると、
    どんどん気持ちがささくれ立ってくる。
    隣のベッドのかたの些細な言動が気に障るようになり、
    とげとげしいものの言い方をしてしまう。
     
    おまけに大学付属病院で手術を受けたんやから、
    多分あたりまえのことなのだが、
    回診には担当の医師に学生がぞろぞろついてくる。
    診察時の説明と術後の落差などなかったかのように、
    手術前の写真と今の私の足とを示しながら、
    とうとうと学生たちに説明している医師を見ていると、
    見世物にされている自分がとても惨めに思えてくる。
     
    同室のかたは、私よりあとに入院しても私より先に退院していく。
    同室になるのは「その程度」のかたばかり。
    うらやましいながらも、私にとっての「変化」はそれしかない。
    複雑な気分であった。
    2週間も後半になると、ベッドから降りることはできないけれど、
    ベッド上で少しは動き回れるようになった。
    トイレも事前に容器をベッド下に置いといてもらい、
    自分のタイミングで使用し、
    使用後の容器をベッド下に置いてナースコール、
    ということもできるようになったのでずいぶん気が楽に。
     
    3週間目には車椅子が用意されることになり、
    この車椅子にベッドからひとりで移ることさえできれば、
    とうとうベッドから降りられるのである。
    入院生活にもずいぶん慣れたうえ、先が見えてくると気分も変わる。
    トゲトゲ・いらいらしていた私も、
    少し落ち着きが出てくる頃となる。
     
    ‥今日はここまで。
     
    September 11

    右足 その2

    決意した、ところで難題が。
    いざ手術となると仕事をしばらく休まなければならない。
    医師からは傷口の化膿を避けるため、気温の低い時期がいい、
    と言われていたが、当時勤めていたプロパンガス販売会社は、
    気温が低くなると仕事が忙しくなる。
    休みたい、と申し出たが専務は「それは困る」といやな顔。
    そこを無理を言って頼み込み、
    退院したらすぐに職場復帰することでなんとか合意し、
    手術にこぎつけた。
     
    手術は皮膚の黒い部分を筋肉ごと「くさび形」に切り取り、
    切り口をぎゅうううっと寄せて縫い合わせる、というもの。
    筋肉を取ってしまうし、傷は深くなる。
    範囲が広い場合は皮膚だけを取り去って他の部分の皮膚を移植、
    という方法もあるのだが、それだと傷が大きくなり、
    切除部分と移植のための採取部分の2箇所傷が残ることになる。
    筋肉ごと取っても寄せてしまえば傷跡は一本の線になり、
    あちこち大きな傷が残るよりいいでしょうと医師が言うので了承した。
     
    局部麻酔でうつぶせに寝ていると、
    ふくらはぎの「切るところ」にペン(?)で線を引いているのがわかる。
    切る前に何かでつつかれ、「痛いですか?」と聞かれる。
    「つつかれている感覚」はしっかりあるので、
    痛いのか痛くないのかがいまいちわからない。
    「う~ん、これって痛いのかも」と思いそう言うと医師は麻酔を追加。
    多分麻酔の注射のほうが痛かった、と思う。
    切り始めてももちろん痛みはないが、「切っている感覚」や、
    「押さえたり引っぱったりする感覚」はある。
    予定よりずいぶん長い時間をかけ、
    「切る・縫う」をしっかり体感して手術は終わった。
     
    術後はひざと足首を90度に曲げた状態でギブス固定。
    夜になり、麻酔が切れると「とんでもなく」痛い。
    体を動かすことができないので歯をくいしばって耐えるが、
    無意識のうちに「ぅぅぅぅぅ‥」とうなっていたのであろう。
    たまりかねた隣のベッドの人が、
    「看護婦さん呼んだら」と言うのでナースコールを押す。
    「どうされました?」との問いに「‥痛いんです」と答えると、
    すぐに痛み止めを持ってきてくれ、
    飲んでしばらくするとうそみたいに楽に。
    なんだ、我慢しないでもっと早く言えばよかった。
    何日も痛いのかな、と心配したが、
    意外とそのあと痛みはなく、動けない不便だけであった。
     
    入院5日、は術後の医師の説明であっさり覆される。 
    診察時はかなり簡単そうに言っていたが、
    切ってみると「皮膚移植をしなくてすむギリッギリのサイズ」だと。
    もしかしたら「寄せる」ゆとりが無くてかなり無理をしたのかもしれない。
    手術が長びいたのもそういうことか。
    天井から吊られ、ギブスで巨大化した膝から下を眺めながら、
    絶対安静のベッドで「少なくとも20日は入院」と告げられる。
    「うそつき」
    心の中で医師に言いながら、今後のことを考えるが、
    考えたところで何をどうすることもできない。
    えらいことになってしもた。
     
    ‥今日はここまで。
    September 10

    右足 その1

    私のいちばん幼い記憶は3歳。
    めずらしくてもったいなくて、
    一日一粒ずつ食べる、と言った(らしい)お見舞いのマスカット、
    川のそばの病院、みどりいろの階段の踊り場、
    ねだらなくても買ってもらえた幼児向き雑誌、
    それをベッドの上で眺める私。
     
    私は生まれつき鎖骨の辺りに血の色の赤いアザがあった(らしい)。
    そして生まれたときは何もなかった右足ふくらはぎに、
    いつの間にかほくろができた、と思ったらみるみる大きくなって、
    とうとうふくらはぎ全体が真っ黒になってしまった(らしい)。
    色素性母斑、というヤツである。
    両親は電車を乗り継いで大阪市内の病院に私を連れて行き、
    1歳と3歳の2回、手術を受けさせてくれた(らしい)。
     
    最初の記憶は2回目の手術のときのことである。
    赤アザは小さかったので1歳のときの1回の手術で切除でき、
    傷跡しか残っていないが、
    足の黒アザは範囲が広くて、2回手術しても切除しきれなかった。
    ものごころついた頃の私の右ふくらはぎは、
    沖縄近辺の島のように点々と連なるまっ黒な皮膚と、
    触ると感覚の違う太い傷跡がしっかり残っていた。
    姉は「友達と並んでいても、
    アンタは後ろから見たらひと目でわかる」と言い、
    駅で電車を待っていると知らないおばちゃんが、
    「あなた右足の後ろが汚れているわよ」と親切に教えてくれる。
     
    医師は1歳と3歳で手術をし、
    ある程度成長したあとでもう1回手術するとよい、と言ったそうである。
    両親は「小学校6年生くらいでもう1回」と思ってはいたらしいが、
    足の機能自体に何の問題もない、ということと、
    ふくらはぎなのでそんなに目立たないだろう、ということや、
    そのほかにもいろんな事情で私の手術は見送られた。
    私も「わざわざ」見ようとしなければ自分では見えないし、
    「それを気にしない自分」を心がけていたので、
    無理を言って手術をしようとは思わなかった。
     
    そうこうしているあいだに母が亡くなり、
    私は高校生になり、卒業して就職し、転職し、
    20代も半ばになろうとした頃、私に転機が訪れた。
    久しぶりに会った友人は、顔にあった大きめのほくろがなくなっている。
    形成外科で切除した、と言う。
    ほくろもそうだが色素性母斑も保険がきく、
    とその友人に教わった私は、
    じゃあ一度診てもらおう、という気になったのだ。
     
    友人に教わった病院を受診すると、医師は昔の傷跡を見て、
    「当時にしたらきれいな手術をしている」と言い、
    「色素性母斑は皮膚がんに発展する可能性もある」と言う。
    受診当時、健保の本人負担は1割の時代。
    診察を終えたあと看護士さんがこっそり、
    「もし50万かかっても、あなたが支払うのは5万だけなのよ」
    と手術をすすめてくれ、
    「そうか、50万かかっても5万ですむのか」と妙に納得した私は、
    「入院5日、1週間で職場復帰できる」との医師の説明に、
    思い立ったが吉日、と手術を受けることを決意した。
     
    ‥今日はここまで。
     
     
     
    June 11

    前まわり

    プールの記事を書いてて思い出した。
    小学校低学年のとき、
    プール以上に怖かったのが鉄棒の「前まわり」なのだ。
    こちらは原因も記憶にある。
    いちばん最初に落ちたのである。 ←わかりやすい
     
    幼稚園の園庭に鉄棒はなく、小学生になって初めて鉄棒をした私。
    昔は講堂の前に低学年用の低い鉄棒があった。
    講堂と校庭の間にカイヅカイブキの木が何本もあって、
    木には「かいづかいぶき 、みきをけずるとえんぴつのにおいがします」
    と書いた札がかかっていたように記憶している。
    私はチビなのでその中でも低いほうの鉄棒をつかんでよいしょっと飛び上がった。
    みんなのようにくるり、と回るはずが、なぜか私は頭から落下。
    それ以来、鉄棒の上にあがって先生の号令がかかっても、
    怖くて怖くて回れない‥地面を見つめて固まってしまうのである。
     
    今思うと頭を下に向けて回るのと、
    顔を水につけるのは同じ種類の恐怖であった。
    自力ではどうしても頭を下げられない、顔を水に近づけられないのだ。
    どうしてもダメだ、と思った私。
    体育が鉄棒の日は「頭が痛い」と見学した。 ←ずるい
    プールの時間は途中で「お腹が痛い」と言ったっけ(苦笑。
    逃げ出すことでなんとか学校を休まずにすんでいたのかもしれない。
     
    そのうち鉄棒の授業は「前まわり」から「さかあがり」になった。
    さかあがりは足を上げれば反動で自然と頭が下がる。
    「自主的に」頭を下に向けなくていいので、何も怖くない。
    クラスに「さかあがりができない子」は何人かいて、
    先生は熱心に指導していたが、「前まわりができない子」は私だけ。
    幸いさかあがりは楽にできたので、私は気をとりなおし、
    足かけさかあがりや連続さかあがりもできるようになった。
     
    当時休み時間の遊びとしても鉄棒は重要で、
    上手な同級生にコツを教えてもらったりしていろんな技をみがく。
    「できる子」たちは「できない」私に親切で、
    「こうやってみたら?」 「もうちょっとやで」 と励ましてくれる。
    どの技にしても前にまわるより後ろ向きに回るほうが得意だったし、
    どうがんばっても連続前まわりはできなかったが、
    徐々にできる技が増えると鉄棒が好きになった。
     
    足の付け根とおなかで鉄棒をはさみ、膝を抱えてまわる「だるままわり」は、
    膝裏で組んだ手を離さない限り落ちることはないし、
    体のすべての部分が鉄棒に近いため安定感がある。
    これだけは前にまわってもちっとも怖くなかったなぁ。
    肘下を鉄棒に当てて上体を支え、膝下の足の振りで反動をつけてぐるぐるまわる。
    途中で止めて逆回転‥あまりまわりすぎて、肘の皮がむけるので、
    制服の上着を鉄棒に巻き、上着と一緒にぐるぐるしていたものだ。
    ※もちろんスカート下に体操服の短ズボンをはいていた ←必需
     
    今でもさかあがりはできる。
    子どもたちが小さい頃に一緒にやったことがある。
    さすがにだるままわりはやってみる勇気がなかったが。
    大人になって思うに、私は握力が非常に弱い。
    現役の高校のときで18ぐらいと記憶している。
    おまけに手首と腕の力が弱い。
    倒立でまっすぐ体を支える分には大丈夫なのだが、
    鉄棒をつかんで回りながら上体を支え、
    腕の力で体を鉄棒の上に持ち上げるという複雑なのはむずかしい。
    ようは鉄棒に向いてないんやね、落ちたのも仕方ないか。
     
    「門番」をやるようになって、玄関で待機中に校庭をしげしげと見渡す。
    開門時間より早く終わって校庭に出てきた女子たちは、
    ランドセルを投げ出して鉄棒に飛びついている。
    今もおんなじなんだなぁ。
    私もちょっとやってみたくなる。
    今度校庭に誰もいないときを狙ってやってみようかな。
     
    March 03

    犬と私 Ⅵ

    毎日のお散歩や、食事の与えすぎに注意して、
    成犬になってからは12㎏をキープ。
    ぶんちゃんのように苦しい思いをさせたくないと、
    毎年きちんと予防薬を飲ませたおかげでフィラリアにもかからず、
    我が家の犬の中ではいちばんの長生き犬だったわん。
    これまで長くても7~8年で別れがやってきたけど、
    わんは10年を越えてまだまだ元気いっぱい。
    楽しい日々はず~っと続くと思ってた。
     
    しかし長生きすると「老い」に直面するのは犬も同じ。
    12年あたりから白髪が増えてきた。
    黒かった口のまわりがまっ白になったねぇと言っているうちはよかったが、
    14年目には目が悪くなり、散歩のとき道路わきの溝に落ちるように。
    まっすぐ歩けないので、
    リードをごく短くして誘導しないと、走ってくる車に突っ込んでいく。
    散歩のたびにぶつかったり落っこちたりとケガだらけ。
    明るい時に見ると眼球がにごっているのが私にもわかる。
    見えてないんだなと哀しくなる。
    そのうち呼んでも反応しなくなったので耳も聞こえてないみたい。
    わんも不安なのか気が荒くなったり、無気力になったり。
     
    そして、私のことがわからなくなった。
    そばに行ってさわってもよろこばない。
    呼びかけても顔を向けてくれない。
    ただ食事を運び、散歩に連れ出すだけの日々がしばらく続く。
    自力ではもうきれいに保てないごてごての毛並み。
    ブラッシングしようとすると、
    誰に何をされてるのかわからないから怒るわん。
    ほぼ一日中小屋の中で寝ているようになり、
    食事を残すようになり、
    粒々のドッグフードが食べられなくなり‥
    わんは14年半の命を老衰というかたちで終える。
    最後の1年は介護であった。
     
    動かなくなったわんを小屋から出し、
    ぶんちゃんのときと同じように段ボール箱に入れる。
    私が小さい頃、父は私たちには一切見せなかったが、
    当時娘は小5、息子は小3。
    見せておこう、と自分が親になって思った。
    起きてきた娘と息子に、箱の中のわんとお別れをさせる。
    わんをかわいがっていた娘は、
    冷たくなったわんを涙ながらにそっとなでる。
    私は子どもたちが学校に行ったあとで斎場へ向かった。
     
    15年も一緒に暮らして、
    お別れはどんなにつらいか、と思ったが、
    晩年のわんを見ていると延命はかえってかわいそうだし、
    仕方ないな‥というのが率直な気持ち。
    ぶんちゃんのときは「やるだけのことはやったから仕方ない」
    と無理やりあきらめたけど、それとはぜんぜん違う「仕方ない」。
    なんか、「そういうことなんやろな」と妙に納得した。
     
    それから我が家では犬を飼っていない。
    夫は早々に犬小屋を片付けた。
    それはわんがいた形跡を消そうとしているように私には見えた。
    わんのいない犬小屋を見るのは寂しかったんやろ。
    今でも勝手口から夫が台所に入ってくると、
    私は「わんは?」と夫に訊く。
    夫は晩年のわんがいるかのように「寝てる」と答える。
     
    ‥お互い何やってるんや、と思いながら。
    March 02

    犬と私 Ⅴ

    我が家にやってきたとき、わんはほんとにちっちゃくて、
    外に出すのは少し大きくなってから、と玄関に入れていた。
    最初は「夜泣き」していたが、すぐに慣れて玄関で暴れまわるように。
    ある日私が仕事に行っている間に、スタンドミラーに突進したらしく、
    帰ったときには倒れた木枠と粉々になった鏡の破片が玄関に散乱。
    よく自分の上に倒れてこなかったものだ。 
    そのあと、高い段差があるので届かないと思っていた花瓶を倒して割ったところで、
    もう知らん、と外に出すことにした。
     
    雨の日以外は毎日散歩させる。
    散歩は私が仕事から帰って夕食の支度をし終わってから。
    わんは私が帰宅して30分経つと、
    「そろそろ時間だよ!」と言うかのように鳴きだす。
    帰宅時間が大幅にずれても、「帰宅後30分」で鳴く。
    これが体内時計というものか、と正確さに驚くことが多かった。
     
    犬の能力は人間には想像もつかない。
    夫が言うには、
    寝そべっている→起き上がる→お座りして待機
    →しばらくすると私が車で帰宅→おかえり!おかえり!
    と、少し前から私の帰宅がわかるらしい。
    夫が帰宅するときも、
    確かに車の音のし始める少し前から準備して大歓迎していた。
    車の音など人間にはまったく聞こえない時点でわかるのはなぜか。
    どのあたりでわかるのかと不思議に思う。
     
    犬は土の上で飼っていると、頻繁にシャンプーしなくてもにおわない。
    土ってすごい、ちゃんと分解してくれてるんやろな。
    勤務先でコンクリートのところで飼われていた犬は犬くさかったもん。
    夏にはたまにホースで水浴びをさせる。
    犬は顔に水がかかるのをいやがるので、最初は逃げる。
    すっかり体が濡れてしまうと慣れるのかじっとしていた。
    体毛の生え変わる季節はブラッシングがたいへんやったけど、
    私がブラシを持つと大喜びするから、
    そんなに気持ちいいんなら、と苦にはならなかった。
    犬用のブラシより、人間用のシャンプーブラシが、
    抜け毛の処理がしやすくて使いやすかったっけ。
     
    犬は序列を認識する。
    わんは自分をどの位置においていたのか。
    子犬の頃は家に私と父だけだったから、
    父:おこられるこわい存在(家長)
    私:言うことはきくけど遊んでくれるし甘えてもいい(母)
    と自分がいちばん下。
    そこへ夫が加わる。
    夫:あとから来たけどどうやら母より上らしいぞ、と認識し
    自分はやっぱりいちばん下。
    さらに娘が生まれる。
    最初は「お兄ちゃん」らしく娘を見守っていた(自分が上)が、
    息子が生まれたあと順番が変わる。
    わんは娘の「おすわり!」に従うようになった。
    息子を自分の下に加え、娘を自分の上だと認識しなおしたらしい。
     
    息子は自分より大きいわんをこわがっていたこともあり、
    最後までわんの上になることはなかった。 
    写真を見ても娘はわんの首を抱いたり、なでたりしているのに、
    息子はへっぴり腰でしっぽを触るからわんにいやがられる(笑。
    子どもが小さいうちは写真が多いが、
    外で撮るときはついわんと一緒に撮るから、
    我が家の犬のなかで最も写真が多いのはわんやろな。 
    February 21

    犬と私 Ⅳ

    ジョニィ以降、我が家の犬は、
    最初につけた名前をベースに、なぜか呼び名が変化している。
    本来は「ジョン」の愛称が「ジョニィ」のはずなんだけど、←中学の英語の教科書に載ってた
    それを名前にしちゃった我が家のジョニィは愛称が「ジョン」。
    さらに進化して「ジョン吉」なんて呼んだりしてた。
     
    「ぶっち」は音の響きがかわいくって気に入ってつけた名前なのに、
    ちゃんと呼んだのは最初だけ。
    「ぶんぶん」 「ぶーみん」 「ぶんた」他多数、
    「ぶ」がついてたらなんでもええんか?レベルで呼び名が変わり、
    「ぶんた」から「ぶんたろう」になって一時期「たろうちゃん」にもなった。
    最終的には名:ぶんた、愛称:ぶんちゃんで落ちつく。
     
    「みるく」と名づけたのはまちがってたなぁ。
    もちろん最初は「みるく」と呼んだけど、すぐに「みる」に短縮。
    父は最後までずっと「みる」と呼んでいたが、
    しばらくして私はなぜか「わんた」と呼ぶようになる。
    今思うと「ぶんた」のつづきやったんか、妙にしっくりきて。
    で、その愛称が「わん」。
    私が「わん」と呼んでいて、夫は「わんすけ」と呼ぶようになる。
    最終的には「わんたわんすけ」という名前で、
    それぞれその一部を呼んでいることにした。
     
    近所の人が通りがかりに「みるくちゃ~ん」と声をかけてくれるが、
    わんは知らん顔であった。
    市の飼い犬登録はカタカナの「ミルク」になってたのでさらに違和感があり、
    毎年4月に狂犬病予防注射を受けに行くとき、
    あぁ、そうやこの子は「みるく」やったんや、と思い出していた。
    「みるく」はやはり縁がなかった白い犬の名前でしかなかったんか。
     
    なぜ私は同じ名前でずっと呼べないのか。
    犬だけかと思っていたら、息子もそうなのだ。←息子は犬レベル?
    いちおう人前では名前で呼ぶが、
    家ではいつ頃からか名前をあまり呼ばなくなった。
    娘と呼び分けるのに「ぼっちゃん・じょうちゃん」を使い始めたのが最初かな。
    「ぼっちゃん」は「ぼん」に変化。
     ↑ ぼん:ぼう(坊)の転、主に関西地方で用いる男児に対する愛称
    「ぼん」は「ぽん」と軽くなり、「ぽんた」に変化。
    やっぱり私は「○んた」が好きなのである。
    それにしても、息子を「ぽんた」「ぽんちゃん」と呼ぶ母も母だが、
    「ぽんた~」と呼ばれて返事をする息子も息子である。 
    まぁいいか、いやがってないし。
    ちなみに機嫌がいいときは、
    「サルぼうず~」と呼ぶと「うっきぃ」と返事してくれるから楽しい。

    たいがいの場合、犬も子どもも生まれてすぐ、
    その子がどんな子かわからないうちに名前をつけることになる。
    つけたい名前と呼びたい名前って私の中できっと別なんだね。
    多分私はその子とのかかわりの中で、
    その子を呼ぶのにしっくりくる名前を、無意識のうちに探しているんだろう。
    「ぽんた」が成長して「ぽんたでなくなる日」が近いうちにきっとくるに違いない。
     
    犬の話が息子の話になってしまった。
    ぶんちゃん以降、犬が家族の一員であるという意識は急激に↑。
    犬らしく外で飼いながら、でも気持ちは家族である。
    そういう意味で、「わん」は私がはじめて赤ちゃんから育てた家族(=長男)。
    娘が生まれる前は、
    「おまえお兄ちゃんになるんやで、かわいがってあげてな」とよくわんに話しかけた。
    それで、というわけではないだろうが、
    娘はわんと仲が良く、よく一緒に犬小屋に入っていたものだ。
     
    さて、いよいよ次回はわんとの思い出。
    ぶんちゃんのところでは書いてるうち、
    ほんとにいろいろ思い出して泣けてきて、涙をふきふきだった。
    今はまだ閉まったままの頭の中の引き出し、
    書きはじめたらどれが開いて、何が出てくるか楽しみである。
     
    February 17

    犬と私 Ⅲ

    ぶっちは小屋の下に自分が入れるだけの穴を掘って、すっぽり入るのが好きだった。
    夏の暑さも小屋の下の穴ならいくぶんましだったようで、
    私が顔を出すと、狭いすき間からごそごそと出てきて甘えたぶっち。
    最後の夏の日の朝、私が見に行ったときもやっぱりそこにいて、
    でも出てきてくれなくて、触るともう硬くなっていた。
     
    私は泣きながら、首輪と硬直してピンと突っ張った足をつかんで小屋の下から引きずり出した。
    こんなに重かったっけ。
    目は閉じていたが、口は少し開いて舌が出ている。
    苦しかったのかどうかはわからない。
    散歩させたのがいけなかったのか、させなくてもやはり助からなかったのか。
    物置にあったダンボール箱にバスタオルを敷いてぶっちを入れる。
    ごめんね、ぶっち。
    助けてあげられなくて。
     
    埋める山はもうないので、私が斎場に連れて行く。
    火葬したあと、敷地内の動物の慰霊塔で供養してくれるというのでお願いする。
    はじめての、ほんとうの意味での飼い犬との別れであった。
    こうして病気や死に向き合うことで、ぶっちは「家の犬」から「私の犬」になり、
    私は「犬を飼う」ということが、少しわかった気がした。
     
    ぶっちのいない寂しさを紛らわせようと、次の犬を探していた私は、
    ある日通勤途中のお宅に「子犬もらってください」の札を見つけた。
    見にいくと白い子犬で、もう欲しくてたまらない。
    一度飼いたかった白い犬、私はその時点で「みるく」と名前まで決めていた。
    とりあえずいただきたいと申し出たが、
    帰宅後父に「知らない家の犬はあかん」と言われて泣く泣く断りを入れることに。
    がっかりする私を見かねてか、自分もほしかったのか、
    しばらくすると父は知り合いから子犬をもらってきた。
     
    しかしやってきた犬は茶色。どう見てもコーヒー牛乳である。
    「ココア」は色合いが違うし、ぴったりの名前が浮かばなくて、
    茶色だけどやっぱり「みるく」に決定。
    この子がのちに「わん」となる犬である。
     
    「みるく」が「わん」となる‥?
    そのあたりも含めて、続きは次回。
    February 16

    犬と私 Ⅱ

    ジョニィと一緒に暮らした日々も楽しかったが、
    やはり別れの日はやってくる。
    父は歴代の犬を当時所有していたみかん山に埋葬した。
    この木とこの木の間にはチビ、ポチはここ、2代目チビはここ、そしてジョニィ。
    どの犬も昨夜「おやすみ」と言ったのに、朝起きたらもういない。
    父は子どもに見せないように、私たちが起き出す前に山へ運んでいたようだ。
    次に山へ行ったとき、「チビはここに埋めたよ」と教えてくれるので、
    私たちはその場所を覚えて、そこを通るたびに犬たちにあいさつしていた。
    そのあと農地整備事業で山は崩され、犬たちのお墓もなくなっちゃった。
     
    ジョニィがいなくなったあとしばらくして、また子犬をもらうことになる。
    雑種の中型犬だが色合いはセントバーナードのような白茶の「ぶっち」。
    ちっちゃい時はぬいぐるみのようなかわいさであった。
    当時ボーイフレンドだった夫にもよくなついて、かわいがってもらっていたぶっち。
    ぶっちは社会人になっていた私が、「大人」としてかかわるはじめての犬だった。
     
    父が育った本家では、養鶏をやっていて、
    鶏を守るための番犬として常に犬を飼っていた。
    犬は家業のために「必要」で、愛玩犬ではない。
    父は犬が病気になると
    『家でできるだけのことはするが、それ以上はどうしようもないのであきらめる』
    という飼い方しか知らなかったとしても仕方がない。
    今思うと、チビからジョニィまでは「家の」犬。
    世話は私も姉もしていたが、責任と権限は父にあったので、
    父が「あきらめる」と言えば、大好きな犬との別れを覚悟するしかなかった。
     
    しかし、ぶっちが晩年フィラリア特有の咳を繰り返し、
    つらそうにしているのを見て、なんとかしてやりたいと思った私は、
    勤務先のかたに教えてもらった動物病院に連れて行くことにした。
    やはりフィラリアで、かなり重症だったので、
    助かる道はただひとつ、首を縦に切開し、体内から虫を取り出す手術だという。
    金額は当時10数万円だったと記憶している。
    それまで私は知識と権限がないため、犬たちに何もしてやれなかった。
    しかし今なら、自分のお金でぶっちを助けることができる。
    私は少ない可能性にかける決心をした。
    後日手術のため病院に連れて行き、オリに移されるぶっち。
    なぜ自分がここに入れられて、私が帰っていくのかわからず苦しい息でほえる。
    帰りづらいが仕方なく帰り、手術の成功を祈る。
     
    数日後、手術が成功したとの知らせを受け、迎えに行く。
    最初オリに近づいた私を鋭い目で威嚇するぶっち。
    一瞬後私と気付いたのか甘えた鳴き声に変わった。
    医師の奥様より、入院後は「捨てられた」と思ったのか、
    とても気が荒くなり扱いにくかったと聞かされた。
    手術は成功したが、体力はかなり低下しているので散歩は厳禁、
    できるだけ安静にさせてくださいと念を押されて退院する。
     
    しばらくぶりの家に大はしゃぎのぶっち。
    のどの傷跡も痛々しく、いくらほえても散歩はダメ!と我慢させる。
    しかししばらくたって食欲も戻り、散歩をねだってほえつづけるぶっちに、
    私が我慢できなくなった。
    そんなに鎖をいっぱい引っぱって暴れながらほえるんなら、
    少しだけ散歩させて気を落ち着けるほうがマシじゃないかと思えてきた。
    「散歩させたら死にます」と言った医師の声が頭の中で響く。
    「ぶっち‥どうする?散歩したらお前死ぬんやで」と問いかける私に、
    「なんで連れて行ってくれへん?早う行こ、行こう!」と訴えるぶっち。
    とうとう私が折れた。
    元気なときのコースよりもかなり短く、走らせないように。
    何日かそうして「ちょっとだけお散歩」を続けていたが、
    ある朝、お気に入りの小屋の下からぶっちは出てこなかった。
     
    うわぁ~思い出しちゃった‥泣。
    でも整理して記録しておきたいので‥次回に続く。
     
     
    February 15

    犬と私 Ⅰ

    私が1歳くらいの頃、我が家では犬を飼いはじめた。 ←昭和40年
    大阪市内に住んでいる母の姉が、
    子犬をバスケットに入れて電車で連れてきてくれたそう。
    茶色い日本犬で名前は「チビ」。 ←最初ちっちゃかったから、らしい(当たり前
    玄関前に小屋を置いて番犬の役目を果たしていたチビは、
    言うことをよくきく、賢い犬だった。
    私はチビと一緒に大きくなった、と言われて育ち、
    お正月やお盆など、私たち姉妹が一張羅を着て玄関で撮った写真には、
    犬小屋の屋根に乗り、お行儀よくおすわりをしているチビがよく登場している。
     
    チビはメスだったし、庭に囲いもないので、何度か子どもを産んだ。
    産後は気が立っていて、何気なく小屋に近づいた私が咬まれたこともある。
    攻撃態勢ではなく、威嚇で軽く咬んだだけだったと思うが、
    なにしろ「いい子」のチビに咬まれたことで驚いた私は「わーっ」と泣き声をあげた。
    ちょうどバスに乗って家族ででかける直前だったため、
    母はすごい形相でチビを叱ったあと歯形のついた私の手に包帯を巻き、
    それから一本遅れのバスに乗ったと記憶している。
    当時は「いつも仲良しだったのになんで?」と思ったが、今ならわかる。
    一生懸命赤ちゃんを守ろうとしてたんやね。
     
    チビの生んだ子どもはいつも父がどこかへ連れて行った。
    一度子どもの中からオス犬を一匹、チビと一緒に飼ったことがある。
    毛は黒っぽい茶色で名前は「ポチ」。
    しかし2匹いると、あとから加わったポチは分が悪い。
    賢いチビに比べられてか、ひねくれた性格になったポチ。
    言うことを聞かなくて気が少々荒かったので、
    なかなかチビのようにかわいがってもらえない。
    失意の中でチビより先に天国へ行ってしまったポチの写真は一枚もない。
    当時小学生低学年の私は、そんなポチが不憫で、
    「写真がないのはかわいそう」とポチの絵を描いたのを覚えている。
    チビとポチ、姉と私‥同じものを感じていたのだ。
     
    チビは7年ぐらいで天国へ。 ←昭和47年
    寂しくなったので翌年父が子犬をもらってきた。
    名前はやっぱり「チビ」。
    おとなしいよい子だったが、5年で天国へ。
    当時近くに獣医はいないし、病気になれば助けられず、
    我が家の中型犬はみな早世である。
     
    次の犬が来てすぐに死んだこともあり、
    しばらく犬は飼わずに‥だったはずが、
    中学2年生になっていた私は、
    学校に迷い込んだむくむくした子犬を家に連れ帰ってしまう。
    これまで日本犬の雑種ばかりだったが、
    この子はどう見ても洋犬のミックス、というふさふさした長い毛。
    父は「野良犬は飼わない」と言ったものの、なんとか置いてもらえることに。
    これまで犬の名は父が決めていたが、
    今回は私が連れてきちゃったので、私と姉で決めていいことになった。
    姉が好きでよく聴いていたアリスは、当時「ジョニーの子守唄」がヒット。
    それで「叙仁依(ジョニィ)」と当て字の名前に。
    陽気で甘え好きなかわいらしい犬だった。
     
    先日学校から帰ってきた娘が、
    「通学路でタヌキが死んでいたので、駐在所に届けてきた」
    と言うのでわけをきくと、
    歩道に「毛の生えたものが入った箱」が置いてあり、
    「子犬かな子猫かな」、と覗いたら死んだタヌキだった、ということらしい。
    このあたりでは、犬・猫のほかに、イタチが、
    そしてたまにタヌキが道路で車に轢かれている。
    町内の通学路には駐在所(派出所ではない)があり、
    そこを通り過ぎてしばらく歩いたところでタヌキを発見した娘は、
    わざわざ引き返して届けたとのこと。
     
    そこに置いたままでも、駐在さんがパトロールのときに見つけてくれたはず、
    と思うが、どうやら生きている子犬であれば連れて帰るつもりだった様子。
    箱を開けてさわっていたのでほっとけなかったのだろう。
    「もし犬か猫やったら、連れて帰ってもよかった?」
    おずおずと訊いてくる娘に、「あかんあかん」と厳しい顔で言いながらも、
    自分もやったしなぁ‥と心中苦笑い。
     
    私は猫も嫌いじゃないけどアレルギーなので家では飼えないし、
    夫は猫が大嫌い。
    犬ならいいのか?といえば、それも今はちょっと待って。
    たとえばジャングルと化した裏庭をきちんとして、とか、
    離れの向こうを整地して駐車場にして車をそちらに、とか、
    飼える環境を整えてからにしようよ。
    まぁ、今回は死んだタヌキでよかったのかも。
     
    この件で久しぶりにジョニィのことを思い出した。
    このあとの犬たちのことはまた次回。
     
    January 06

    一足早く

    3日から釣りに出かけていた夫が昨夜帰宅した。
    今回は滞在が長かった割には釣果なし、おまけに体調を崩してしんどそう。
    今日私は隣組の女性ばかりの新年会に参加して、
    お昼に豪華なお料理とお酒をいただいてきたので、
    夕食時にぜんぜんお腹が空いてない。
     
    一日早いけど、七草がゆがわりの野菜入りのおじやを夕食にしよう。
    大根、壬生菜、おせちに使いそびれた金時人参を土鍋で煮て、
    残りご飯を入れ、溶き卵を流す。
    みんなであつあつをふぅふぅしながら食べると食卓にほんわかした空気が漂う。
    お腹の調子が悪い夫も意外と食が進んでいるみたい。
     
    子どもの頃は普段の朝食が白粥。 ←本家は茶粥だった
    このあたりでは「おかいさん」と呼ぶ。
    母が病気がちで、私たち姉妹は流しの水道に手が届くようになると ←小学校低学年
    夕食の後片付けをまかされ、家族の食器を洗ったあと、
    翌朝のお粥の米をとぎ、水加減をしたものだ。
    朝、いつもは母が炊いてくれるが、
    筍のシーズンには両親が朝早くから掘りに行くため、
    帰宅後すぐ朝食にできるよう、お粥を炊くのも私たちの役目であった。
     
    我が家のお粥は水の多いさらさらした粥。
    熱くて食べられないときは茶碗に冷やご飯をよそい、←つけご飯という
    上から熱いお粥をかけて冷まして食べたっけ。
    ご飯と違って水加減は「この鍋のだいたいこのあたり」で、
    少しぐらい多くても少なくても大丈夫。
     ↑ お粥に使っていた鍋は、毎日同じところまで水を入れて炊くので、
        内側が水の上辺あたりで変色していてわかりやすかった
    焦げ付かないから、ふきこぼれにさえ気をつければ小学生でも炊ける。
     
    中学生になるとお粥では昼までもたず、朝食はご飯になり、
    母が亡くなってからはお粥を炊くこともなくなった。
    結婚し、子どもの離乳食の時期になって、久しぶりに米からお粥を炊くときがきた。
    少量でいいので一人用の土鍋で炊くことにしたが、
    昔使っていた「おかいさんの鍋」じゃないから水加減がわからなかった私(苦笑。
    初期の離乳食の薄いお粥なら、米はスプーン1杯ほどである。
    古びたお粥用の鍋は、とっくに処分してしまったが、今思えばけっこう大きな鍋だった。
    父はおかいさんを朝からどれほど食べてたんだろう‥
     
    七草粥のおかげで、私の記憶の引き出しが開いた。
    そういえば、昔生まれて間もない子犬をもらってきたときも、
    最初はおかいさんの上澄みを飲ませていた。
    人間も犬も一緒やったんやね。
    June 06

    田植えの思い出

    先日、所ジョージさんのTV番組で、田植えの話題が出ていた。
    外出前でちゃんと見ていたわけではないのだが、
    まずもみを選別し、水につけ、苗箱に土を入れたところにまく。
    苗箱をハウスの中に重ねて積み上げ、ビニールをかけて温度を上げて発芽を促し、
    少し苗が伸びてきたら積んであった苗箱を平たく並べなおして植えられる長さまで育てる。
    そういう手順も含めて映像を流していたように思う。
     
    日本では地域差はあるものの、発芽時期の気温が低いため、苗箱を使って暖かい場所で育てる、
    と説明していて、あれ?うちは苗箱なんか使ってなかったなぁと昔のことを思い出した。
    私の父が昔本家と一緒に田植えをやっていた頃はみかん山と同様山の斜面の棚田でのコメ作り。
    1枚の田もあぜ道も狭く、機械は乗用じゃない耕運機ぐらい。
    田植え機などなく、赤い玉のついた糸をあぜからあぜに渡して、
    一列ずつ手で植えては糸を移動させていく、というのを延々と続ける。
     
    苗は苗箱じゃなく、田んぼの近くの畑で育ててた。
    田植え前日の夕方は、苗を抜いてわらで束ねる作業をみんなでする。
    根っこの土を落としすぎたらあかん!と叱られながら、左手にいっぱい持てるだけの束を作る。
    畑の苗が全部束になったら、翌日植える田に運んで水につけておく。
    翌日、いよいよ田植え。
    昨日の苗束を、あぜから田んぼのあちこちに投げる。
    植えている途中で手にとれるように、田んぼじゅうにばらまいておくのだ。
    投げた苗束は重い根っこのほうを下にして「ばちゃん」と着地するのがおもしろくて、
    「投げさせて!」と真似をして投げる。
    でも私が投げると田んぼの真ん中までは届かないので、やっぱり父が投げる。
    大人ってすごい‥かなわない‥って子供心に思う。
    もちろん植えるスピードも、植え方も大人にはかなわない。
     
    こういう「大人にはかなわない」という経験を小さいときからたくさんしているから、
    親に生意気な口などきけなかったのかも(笑。
     
    大人たちは田植え用の長靴を履く。
    長靴というか、地下足袋と長靴をミックスした感じ。
    丈はひざより上まであって、つま先は親指が分かれている。
    普通の長靴よりしなやかな感じで、足にフィットさせて脱げないようにゴムのベルトをかける。
    子どもにはそんなものはない。ズボンをまくりあげて裸足で田に入る。
    やわらかい泥で足が沈むが、下には固い土の層があるのを足の裏で感じる。
    ヒルがいる。石で足を切る。
    でも多少のケガやら何やらは気にしていられない。
    植えていない田と苗があるかぎり、作業は続く。
    植えてしまわないと帰れないのだ。
     
    みかん同様、子供に決して楽しい作業ではないが、
    すべての田が終わった時の達成感は格別。
    またこれをしないとコメが食べられないということもわかっていたからだろうか、
    「とんでもないほどいやだった」という記憶はない。
    それともすんごくいやだったのに、それを忘れてしまっているのかな。
    みかんは秋から冬の間ずっと続くが、田植えは2日くらいで終わる、イベントっぽいからかな。
    休憩時のおやつは、本家のみかん山の池の横に木があるびわだった。
    私の中でびわは、「田んぼで食べる」もので、もちろん池の横の木になっているもの。
    店で買ったびわを、お上品に食卓で食べる気にはなれず、我が家ではびわは食べない。
    本家のびわの木なんかもうずっと前になくなっているのにね。
     
    何年か前に、私の加入している生協で、コメ作りを体験するイベントがあり子どもたちと参加。
    契約農家さんの田んぼを1枚貸していただき、わざわざ手で田植えをし、鎌で稲刈りをする。
    夏の草取りもさせてもらう。
    もちろん日々の管理は農家さんに甘えていたが、自分たちもできる範囲で作業をし、収穫のヨロコビを共有する。
    当時子どもはまだとても小さくて、泥んこあそびやかえるを追いかけるのに夢中だったが、
    いわゆる「昔ながらのコメ作り」を体験させてやれた貴重な機会だった。
    私も、何年も田に入ることなどなかったにもかかわらず、足は泥の感触を、手は植え方を覚えていて、
    「あぁ、こんなだったなぁ」と思い出しながら作業したものだ。
    子どもの頃「労働力」として動員されるのがうれしいわけはなかったけど、
    今になって思い出すのは懐かしさばかり。やっといてよかった‥のかな。
    December 28

    冬はみかん

    我が家は米・野菜・みかんを育てる兼業農家であった。
    父は平日土木関係の仕事をし、休日に農作業をする。
    田植え・稲刈りなどは本家と日程を合わせてみんなでやったものである。
     
    山のみかんが色づくと、子どもの私たちにも動員がかかる。
    姉も私も一人前にかご(ボテと呼ぶ:竹製やポリプロピレン製)とハサミを持ち、
    一日中収穫作業に従事するのだ。
    早生種の収穫の頃はまだそんなに寒くないが、
    晩生になると手も足も冷え、寒風吹きすさぶみかん山の斜面で、
    時にはしゃがみこみ、時には木に登ってすべての実を収穫するのは結構キツい作業である。
    学校がない土曜の午後と休みの日曜・冬休みは有無を言わさず働かされる。
    みかんは木に実を残しておくと翌年の収穫に影響するので、
    みかん山じゅうの木1本残らず年内に採り終えなくてはならない。
     
    今日はこのあたり、今日はこちらの斜面と連日の収穫作業。
    枝を折るな・実にキズをつけるなと言われ、スピードも要求される。
    もちろん小学生に楽しいはずがない。
    楽しみといえば、父が木にぶら下げている携帯ラジオと、
    休憩時にあたる焚き火だけであった。
    歌謡曲が流れたら一緒に歌って気分を盛り上げる。
    時々姉とクイズ合戦やしりとりなんかをやる。
    あとは黙々と次の実・次の実と手を伸ばす。
     
    毎年収穫を終えるのは年末ギリギリだった。
    あわてて大掃除をしておせちを用意して新年を迎える。
    「お正月」というものは、子供心にとても神聖な、でもとてもうれしい『非日常』だった。
    今はなんとなく迎えてしまう新年が、今より格段に高いレベルでうれしかったのは、
    寒い中もう山で収穫しなくてもいいからだったのかもしれない。
     
    正月が終わると、今度は貯蔵してあるみかんの選別作業に動員される。
    寒い倉庫にしゃがみこんで、サイズ分けし、キズの有無を確認。
    みかんの作業は山があるうちはずっと続いて、ほんとうによく働いた。
    就職後すこしたった頃にみかん山を含むあたり一帯が土地改良区となり、
    山を崩し谷を埋めて道路を作り、あたりは平地になった。 
     
    ひとりで土をつくり、木を植えるところからやり直すのは無理と、米もみかんもやめた父。
    田植えや稲刈り、みかんの作業はなくなり、20代の私はどれだけほっとしたか。
    そのときから米は買うようになり、みかんは本家でもらうようになった。
    本家では家の裏手にみかん山が少し残っていて、欲しいと言えばいつでもみかんをくれる。
    でも味が違うのだ、父のみかんとは。 
    おいしいと思えないので、本家の伯母が「みかんをあげる」と言ってくれてもあまりもらえない。
    もらっても食べられないのだ。 
     ↑ 本家のは一般的にはおいしいみかんなんですよ、でも私の口は受け付けない。
     
    みかんをほとんど食べない時期が10年くらい続いただろうか。
    娘が生まれる頃に加入した生協で、あるとき父の味のするみかんにめぐりあった。
    再びみかんを「おいしい」と思って食べられるヨロコビ。やはりみかんはおいしいのだ。
    今は毎年その生産者のみかんを予約する。箱買いして毎日最低2~3個は食べる。
    貯蔵物になる年明けは酸味が抜けて味が変わってくるので、
    1月半ばぐらいが私の中でのシーズン終了である。
     
    こんなにみかんの味にうるさいのは、
    1本の木でもかなり味に差があるのを知っているからだ。
    日当たり・枝についた実の数などで味に差が出てくるが、
    私は形を見ればおいしいみかんがわかる。←プチ自慢
    もちろん当時山で食べるときは、選び放題なので、
    見える範囲でいちばんおいしいみかんを食べてやろうと思っていた。
    太陽光の当たり具合でおいしそうに見えるみかんが、
    実は「はずれ」だったときはくやしくて、おいしいみかんを食べるまで止められず、
    「これで最後‥」と思いながらいくつも食べたことを思い出す。
     
    今でも「最後のひとくち」はいちばんおいしいのがいい。
    箱の中から選んだ2個を、1個ずつじゃなくて、
    こっちをひとくち、あっちをひとくちと同時進行で食べる。
    2個のうちおいしいほうが最後になるように食べると、
    いくつも食べずにすむんですね。だから1回に2個は食べる。
     ↑ みかん食べるときにここまでする人いる?
     
    ビタミンCで風邪予防・袋ごと食べて食物繊維の摂取と、
    おいしいうえにありがたいみかん。
    我が家にこたつはないけれど、冬といえばやっぱりみかんだね。
    December 21

    五右衛門 おまけ

    終わったと思ったのにまだあるんかい!  とお叱りの声が聞こえてきそうですが‥
     
    お役御免となった五右衛門風呂はどうなったのか知りたいでしょ?←いらんって
    もうちょっと、書いておきたくなりました。
     
    新しいサニタリーが完成した時点で「無用の長物」と化した五右衛門風呂。
    しばらくは「もしかしたらまた使うかも」と思っていたが、使わないとあっという間に傷む。
    これには驚いた。
    毎日洗って水を入れて沸かして‥と使っているからこそ毎日同じ状態で使えるのだ。
    釜の内側、使っていたときの水位線(線が書いてあったわけじゃないけど、ほぼ毎日同じぐらいのところまで水を入れていた)の下あたりがはがれてバラバラと崩れ出した。
    その時点で、今度はもし使いたくても使うのが怖くなった。
    だって入浴中に崩壊したらどうする?
     
    洗い場の排水口は外に直結とはいえ、風呂場への出入り口が食事をしている部屋にあって、壁・屋根は一応ある。
    洗い場のコンクリートの上と、釜の上に板を置いて、物置にすることにした。
    古新聞・古着・ダンボール・掃除機・脚立など雑多なものを入れるのにちょうどよく、今も役立っている。
    11年物置として使って、最近雨漏りを発見。今後については要検討箇所であるが。
     
    さて新しいトイレで子どもたちのトイレトレーニングも順調。
     ↑ うちはゆっくりおむつがとれるタイプ。幼稚園に間に合ったからまぁ「順調」でいいでしょ。
    子どもの友達が遊びに来て、「トイレ行きたい」と言ってもにこやかに「どうぞどうぞ」と言える。
    以前なら幼稚園児に「どうぞ」なんて恐ろしくてすすめられない。
     
    そういえば娘が幼稚園の頃のこと。
    友達がたくさん(男女混ざって)来て7~8人で遊んでいたのに、私が台所にいる間に部屋にひとりもいなくなった。
    みんなの靴はあるのに‥と不審に思ったら、全員トイレからぞろぞろでてきたことがあった。
     
    娘に「なにしてんの??」と訊く。
     
    「エレベーターごっこ」。
     
    なるほど‥そんな遊び方もできるのか、子どもってすごい‥と感心した場面であった。←楽しいんか?という疑問は残るが
    以前のトイレではどう考えてもそんな遊びは許されないが、洗面所から続いて同じ木の床だし、段差はなく、入り口ドアから便器まで結構広い。
    家の中でエレベーターごっこができる唯一の空間である。まぁいいか‥と黙認した母であった。
     
    浴槽は夏には子どもの大好きな「お風呂プール」となり、夏休みのよいヒマつぶしになってくれた。
    ビニールプールもあったが、空気を入れて膨らませ、水を入れて少し日なたで水を温めて、終わったら水を抜いて乾かして‥と意外と手間のかかるものなので、なかなか準備してやれなかった。
    お風呂なら「今から行っといで!」と気軽に遊ばせることができたもんね。
     
    今でも台所は土間にスノコ敷きだし、土壁の隙間から寒風吹きすさぶ寒い家ではあるが、この増築によって一応「人並み」の生活ができるようになった。
    決断を下した夫に感謝感謝‥